櫻道ふとん店について
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寝具製作1級技能士のいる布団屋
富士山の麓「御殿場」の手作りふとん
富士山の山頂には、宿泊可能な山小屋が3つあり、すべての山小屋で櫻道ふとん店の布団が使用されている。昔ながらの雑魚寝形式で寝る山小屋だから、収めている布団にも特徴がある。宿泊期間が夏期だけとはいえ、夜間はマイナス5℃まで気温が下がることがある。
そこで布団と布団の間に隙間ができないよう敷布団はダブルサイズ。また、敷布団と掛布団は同じ厚み(通常は掛布団のほうが薄い)、これは中綿を「掛布団→敷布団→座布団」と効率よくリサイクルするための工夫。もちろん櫻道ふとん店手作りの特注品である。
富士山頂と櫻道ふとん店。そのつながりは、創業社長の林 兼義(はやし かねよし)と妻の愛子から始まる。兼義は昭和8年(1933年)、御殿場市上小林で農家を営む傍ら富士山への荷揚げ業を営む「からまつ」の次男として生まれた。その頃「からまつ」は富士山頂の山小屋「扇屋」の経営権を得ていたため、幼いころから兼義は御殿場と山頂を行き来して過ごした。
一方、愛子は、御殿場市ぐみ沢で「わたや」という屋号で土建業を営む両親のもとに生まれた。20歳の頃、「手に職をつけた方がいい」と両親にいわれ、大阪で布団作りを学んで帰郷。大阪の叔父が綿を打つ仕事をしていたため、布団の中綿をそこから仕入れ、内職として布団作りを始めた。
昭和36年(1961年)兼義と愛子が結婚し、7年後の昭和43年(1968年)櫻道ふとん店を開業した。妻の仕事を手伝いながら、兼義も布団職人としての腕を磨いていく。そして幼いころから何度も足を運んだ、富士山頂の山小屋「扇屋」の布団を任されることになる。
富士の自然の厳しさは良く知っている。山小屋経営の大変さもわかっている。少しでも温かな布団で登山客を迎え入れたい、という思いを込めて夫婦で手作りした布団。その後さまざまな改良が加えられ、やがて須走口と御殿場口の富士山 山小屋が櫻道ふとん店の布団を使うようになった。
ところで櫻道ふとん店が最初に店を構えたのは、富士山の麓を周回する国道469号線に面した場所。
道路の両脇には500mに渡って桜の木が植えられ、満開時には豪華な桜のトンネルになり、真正面に見える富士山と相まって絶景のビュースポットだった。
残念ながら道路拡張で桜並木は失われてしまったが、櫻道ふとん店の店名もここから付けられた。林兼義が選んだこの土地の地籍名は、御殿場市荻原字林頭。偶然なことに「林」つながりであった。
同じ御殿場の地に生まれた兼義と愛子。周囲の人たちも同じ学校の出身であったりとつながりが深く、人から人への紹介の形で布団が売れるようになり、少しずつ経営も軌道に乗っていく。
しかし必ずしも右肩上がりとはいかず、悩んだ時には易者に尋ねることもあった。何人かの易者に訪ねたのだが、不思議なことにそのたびに「林さんの後ろには木花開耶姫(このはなのさくやひめ)様がいらっしゃるから大丈夫」と言われた。
木花開耶姫といえば、富士山山頂に奥社を奉る富士山本宮浅間大社の主祭神。サクラの語源になったといわれる神様である。
1990年3月1日、兼義は息子である義浩(よしひろ )を専務として店の運営を任せ、自分は1職人として妻と共に櫻道ふとん店を支えていくことにした。
その後、現社長の義浩が「睡眠の質」にこだわり、寝具素材の研究開発などを進めた結果、事業が拡大。職人さんなどのスタッフも増えて店が手狭になったため、2013年、ショールーム兼布団工房を現在地に移動した。
たまたま見つけたその土地は、御殿場市萩原992-23。語呂合わせで最後の部分が「ふじさん」と読める。これも偶然であった。また、建築確認が交付された日付も、2月23日(ふじさんの日)であった。
「富士山、綿、サクラ、林、いろんなことがつながっていくと、ただの偶然ではないのかなとも思います。櫻道ふとん店は、寝具で人を幸せにしたいと願っている会社です。富士山の気を感じながら、神様に見守られながら、これからもこの土地で良い布団を作り続けていきたいと思っています」(林 義浩)
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